人生あんまり向いてない

人生向いてる人なんてほんの一握りだよね

「救急隊員が救急車を止めてコンビニに入るべきではない派」を擁護したい

死ぬほど反感を買いそうなタイトルだけど、釣りでも炎上目当てでもなんでもない。

 

炎上してもいいという覚悟を持った上で(知らない人は誰も私のブログなんて見ないだろうと思っていたけど、前記事がgoogle検索からのpv数が数百だったから炎上の可能性もなくはないと思う)、「賛成派以外はゴミ派」に異議を唱えたい。

 

以下のツイートが、2日で4万リツイートを超えた。

 

 

一連の流れを簡単に説明すると、以下のようになる。

 

名古屋市の救急隊員が自動販売機で飲み物を買う姿を市民から批判される。

 ↓

隊員たちは救急車でコンビニなどに立ち寄ることを控える。

 ↓

名古屋市消防局が『(略)出勤が連続し消防署に戻れない時は、救急車でコンビニ等に立ち寄り飲食料等を購入する場合があります。その際も、出動態勢は維持しています(略)』と異例のツイートを行う。

 ↓

『救急隊員が職務中にコンビニで飲料の購買をすること』に賛成か反対かの街中インタビューが行われる。

 ↓

反対派がツイッターをはじめとするネット上で袋叩きにされる。

 

連日、どのニュース番組でも熱中症対策が放映されている現在、救急隊員がこまめに冷たい飲み物を補給できる環境で仕事をするべきことは自明である。

 

もちろん、賛成派のこういった考えに対して、反論は一切ない。

 

このことを前提として本題に入りたいのだが、もう一点だけ先に言わせてもらいたい。

 

「(救急隊員が)仕事していないと思う人がいると思う」

→ツイートの1枚目のこの発言に関しては、「そんなやつのことは知るか」。以上。

 

「救急隊員はなるべく救急車でコンビニに行かないほうがいいと思う」理由は、2枚目のおばさんの意見と少し似ている。

 

それは、救急車を見かけたとき、「邪魔にならないように近寄らないでおこう」、救急車から降りた救急隊員を見かけたとき、「道を開けよう」と思うからである。

 

私は、できることなら、無駄な配慮で神経をすりへらしたくない。

 

ネット上には、「『なにかあったの?』って思ったとして何なの?勝手に思っとけよ」みたいな声が溢れている。

 

しかし、無駄な配慮や心配をしたくない、というのは至極当然のことだと思うのだ。

 

私のようにただ少し神経を遣うだけならまだしも、子どもがいたら、「なにか事件があったのか」と、ひやりとする気持ちはかなりのストレスになると思う。

 

また、「救急隊員には、ちゃんと物資は確保して行動してほしい」という違う角度からの意見も見かけた。

 

このインタビューでは、単に『救急隊員が職務中にコンビニで購買を行うことについて賛成か反対か』を問うている。

 

『現在、救急車には一日分の食料を保管することができるような冷蔵庫はおろかクーラーボックスもない。そのような状況においても、救急隊員はコンビニに寄らず、食中毒の危険性が高い飲料を飲む、もしくは熱中症になろうとも何も飲まずに堪えるべきか、否か』などと聞いているわけではない。

 

「なにかあったの?って思うから反対」

「救急車の中に(飲料を)1日分置いておくことはできないのかなって」

 

という、反対派の意見も至極真っ当だと思うのだ。

 

「普通に考えて、救命器具、救命道具を載せてたら救急車の中はいっぱいだ、数人の救急隊員の飲料を積んで置くスペースはない」

 

このような意見をちらほらと見かける。

 

正直、ふーん、そういう現状なんだ、という感じである。

 

街中でぱっと聞かれた(嫌われるような意見を言うのはヤラセだという主張もあるが)インタビューだ。

 

スペースのことまで頭が回らなかったから(3枚目の人)、また冷たい飲料をどのように確保するかについて言及しなかったから(2枚目の人・もしかしたらインタビューで回答していたかもしれない)といって、ネット上で何十人、何百人から叩かれ、何百万人の目に醜態として晒されるほどのことだろうか。

 

 

「賛成だ」と言っている人たちは、入ろうとしているコンビニの目の前に救急車が止まっていても、自分が買い物をしているところに救急隊員が入ってきても、緊張感を持たないのかと思う。

 

「冷蔵庫やクーラーボックスが設置できていない状況なんだから、ぜひ救急車を止めて購入してほしい。私たちのために暑い中忙しく働いてくれている救急隊員の方のためなら少しぐらい無駄な配慮することなんてへっちゃらだ」という人だっているだろう。

 

こういった賛成派の意見は、もちろん非の打ち所がない。

 

しかし、賛成派の全員がそう考えているとは、正直思えないのだ。

「敏感で、現状に異議を唱える反対派」「我慢すべきだというキチガイの反対派(超少数)」「敏感ではあるが、現状を受け入れて我慢する賛成派」「鈍感で、単純に飲み物は買うべきだと考えた派」の四派ではないかと考える。

 

こう見たときに、「反対派」を一絡げにして、人でなしかのように批判されているのは、おかしいと思うのだ。

 

「お前ら絶対外で飲み物買うなよ。家から全部飲み物持って来いよ。」というこの話題のツイートをはじめとした、

「(略)あの仕事はやっちゃダメで、ほかの仕事ならやっていいってか、おかしいだろ。」

「救急隊員も人間です。(略)何でもかんでも制服を着用すると制限がかかるのはおかしい」

→反対派の人たちのほとんどが、「サラリーマンは仕事中にコンビニに行ってもいいけど、救急隊員は救急隊員だからダメ」などと考えて発言したわけではないと思うのだ。

何事かと身構えるから、なるべくならコンビニに寄らずとも冷たい飲料を確保できる環境にしてほしい、という考えのもと発した人もいることは、容易に想像できる。

反対派はみな、仕事による差別をしていると捉えるのは早計ではないだろうか。

 

「救急隊員がコンビニ行くのあかんとか言うババアおるの意味わからんなぁ。ていうか何があかんのかちっともわからん。どうせなんとなくあかんっていうだけやろうな。理由なんかない、考える能力がないから。こういう人たちって。」

「要はこういう人たちって、自分たちの日常に、非日常的なものが紛れ込むのが嫌なんだろ?極めて狭量で視野狭窄の思考だわな」

→全員が全員「なんとなくあかん」「非日常的なものが紛れ込むのが嫌」っていう理由ではないかもしれないということが想像できないあたり、この人たちこそ考える能力がなく、極めて狭量で視野狭窄の思考をしてるんじゃないかと思う。

 

 

 

こんな人、リプ欄にほっとんどいなかった。君は最高だ。

 

「無差別殺人は罪かどうか」みたいなことを問うて、「無差別殺人は悪いことじゃないと思う」と主張しているわけじゃあるまいし、それぞれの思考のプロセスを経て出した答えについて、どう思おうと勝手だけど、一般市民をここまで追い詰めるのはよくないと思う。

 

この記事を書いて、自分も直観に反する意見だからと言って強く否定してはいけないと思ったし、その人と対峙する必要があるなら、考えのプロセスを紐解いていく必要があるということを、改めて考えさせられた。

 

例えば、「性別役割分業には賛成だ」と言っている人と話す機会があれば、「そんなのおかしい」と切り捨てるのではなく、「社会で働きたいと思っている女性についてはどう思っているのか」と問いかける。

 

「そういう人は働いたらいい。自分の周りには専業主婦になりたい女性が多いから、基本的には賛成というだけで、女性は必ず家庭に入るべきだと思っているわけではない」

 

という返答が返ってくるかもしれない。

 

「女性には家事が得意な人、男性には体力がある人が多い。特化した方に集中するほうが日本のためになるのだから、そういう枠組みを固定して、女性は全員、家事や育児のみを行うのが合理的だ」

 

と返ってきたなら、

 

「家事が苦手な女性、得意な男性、体力や能力の高い女性もいるが、一律に固定するほうが本当によいのか」

 

などと投げかければ、そういった個人差を排除してでも画一的な分業を行うことのメリットを教えてもらえるかもしれないし、それなら、家事や仕事の能力を測定して向いている方に特化するというのはどうだろう、というような新たな見解が生まれるかもしれない。

 

真っ向から否定するのではなく、まずは意見に耳を傾け、思考の道筋をたどって、それで最終的に「この人の根本にある考え方が、自分とは合わない」と思ったら、その考えは、自分とは違うと穏やかに伝えるのがいいと考えている。

 

勝手にツイートを載せたり、ツイート内容を引用したりしてしまった(すみません)が、もし本人がこの記事を見つけて、こういう思考のプロセスからの発言なんだと主張したかったら、コメントに書き込んでほしいと思う。

 

でも、どうせ、このツイートをした人たちは見ないだろう。

 

話題になっている本人以外は、ネットで叩いたことも忘れて土日を満喫するはずだ。

 

本人は見ないだろうと思って叩いてツイートしてる人がいるのであれば、その人たちには、「自分が話題になっているとわかると、人はとんでもない勢いでエゴサをする(体験談)」ということを知ってもらいたい。

 

 

話が脱線したけれど、最後に、「現状では賛成せざるを得ないけど、最終的には反対派」の意見を載せたい。 

 

「できることなら、救急車内に冷却装置を完備して、コンビニに寄らずとも冷たい水分を充分に取ることが可能な環境を整えて、無駄な心配や配慮をする必要がないようにしてほしい。

スペースの関係でそれが不可能なのであれば、現状では自動販売機やコンビニに寄るべきだと思う。

でも、自動販売機やコンビニにも寄る時間がないときにストックのものを飲める、買ったものを冷やし続けられる、さらには熱中症などの患者にも渡すことができる、というメリット尽くしだから、なんとか工夫してクーラーボックスを設置してほしい。」

 

長文読んでいただきありがとうございました。 

 

ネットの心ない批判に苦しんでるであろうおばさんたちが、元気を取り戻せますように。

『ムスカイボリタンテス』を買った / ブログについてのブログ

バズマザーズのニューアルバム『ムスカイボリタンテス』を買った。

 

ジャンヌは解散してるしアルカラの最新アルバムは微妙だしミイラズに至ってはここ最近同じ人が作ってるとは思えないほど歌詞が劣化してしまっているしという、過去の名作にすがるしかなかった私の前に現れた神アルバムについて語り合いたいが、私の知り合いにこの神バンドの存在を知っている人がいるかどうかすら怪しい。

 

ネット上の誰かが言っていたが、バズマザーズは曲を聞いたらファンでなくてもその凄さがわかるバンドだ。

 

メロディー、歌詞のセンスの素晴らしさを語ってぜひ聴いてくれと言っても、なかなか響かず流されてしまうという経験は何度もしてきた。

 

だから、演奏力の高さ、完成度を保証するから、youtubeに載ってる曲をまず聞いてみてほしいとロックファンに訴える。

 

…こう言っても聞いてくれないのも、経験済みである。

 

バズマザーズの布教は諦めて(といいつつ本当は諦めていないからこういうことを書いたけど)本題に入りたい。

 

先ほど「ネット上の誰かが」と言った。

 

ネットには、さまざまなものについて語っている人がいる。

 

バズマザーズは、ファンでなくてもその凄さがわかる。」

 

まさにその通りだと思う。

 

言い得て妙なことを言っている人がたくさんいるから、ネットサーフィンはやめられない。

 

しかしネットには、その言い得て妙なことを言う人を超える才能を発揮している人たちがいると思う。

 

このブログをはじめるきっかけになったブログがある。

 

hadahit0.hatenablog.com

 

わたしは、歌詞が難解な曲を聴くと、すぐ「○○ 解釈」などと検索する。

 

本当は歌詞のひとつひとつの言葉を調べ、じっくり自分で考えた解釈を大切にしたほうがいいのかもしれないが、つい調べてしまう。

 

「いや、それぐらいはわかってるよ」「なるほどそういうことか」「その解釈はまちがってないか?」

 

などと言いながらページをわたっていくが、わりと表面的なことしか書いていないサイトやブログが多く、まあいいや、と自分の直感以上の解釈を諦めることが多い。

 

そんななか、難解も難解なバズマザーズの曲を聞いた私が当然のように「バズマザーズ 普通中毒 解釈」などと検索してたどり着いたブログがこれである。

 

読んでもらえればわかると思うが、半端ない。

 

バズマザーズに対する、音楽に対する、メディアに対する、世の中に対する造詣が深すぎるのだ。

 

真似してわたしもこのアルバムについて書こうとしても、『変身』はカフカのオマージュなんだなとか、ハヌマーンの頃から猿やモンキーつかうの大好きだなとか、がんばってペダラーダはまたぎフェイントを意味するのはこの歌詞の勝利側の制圧と関係するのかなとか、その程度である。

 

むりむり。

 

ここまで完成度の高い紹介記事は、どんなものについてでも書けない自信があるが、時間があるときに、大好きなものたちについては書きたいと思っている。

 

まあ基本的には紹介記事ではなく、つれづれなるままに、パソコンに向かいて、心に移りゆくよしなしごとを書いていこうと思う。

 

わたしはわたしにできることをがんばります。

 

もうひとつ、神ブログを紹介して終わりたい。

 

gonza.seesaa.net

 

乾くるみイニシエーション・ラブ好きな人は、このブログ絶対読んでほしい。

 

このブログの投稿者、5割ぐらいは作家本人じゃないかと思ってる。残りの5割は編集者。

 

ただのファンがこんなに事細かに解説して書ける可能性は0だよ、0%。

 

話があっちこっちいったけど、言いたいことをまとめると。

 

1.バズマザーズの新アルバムやばい

2.バズマザーズのアルバムについて書いてるブログやばい

3.イニシエーション・ラブ解説してるブログやばい

4.ミイラズはほんと、がんばってくれ

 

(ずっと神アルバム再生しながら書いたので、文の乱れがあっても許してください。長文終わり)

男性水着しかり

ちまたには、男女差別に対するさまざまな議論があふれている。

 

その中には、給料が低い、管理職になりづらい、といった女性が被っている性差による不利益の話もあれば、その逆のものもある。


レディースデーだけあるのはおかしい、女性専用車両があるなら男性専用車両をつくれ、そういった「逆差別」と言われているものだ。

 

ここでは、そういった主張に対してどうこういうつもりはない。

 

今、論点はそこではない。

 

わたしが言いたいのは、これだけである。

 

「レディースデーには文句言うのに、男子だけ街中のトイレで知らないおっさんの前で晒して排尿しなきゃいけない世の中に、不満はないんかい?」

 

冷静に考えたら、男女差やばくない?

 

世の中の常識、こわい。

人生あんまり向いてない1

わたしには、なんでも「よかったこと」にする癖がある。

 

例えば、ものを無くして探したことを「部屋を整理するきっかけになった」、前髪切るの失敗してごまかすために短くしたことを「普段ならやらない髪型にする機会になった」とか。

 

一見、人生向いてそうに見えると思う。

 

よくない出来事の、よい面を見るようにすることは、ポジティブに楽しく生きるコツでもあるからだ。

 

確かに、そういう一面もある。

 

自分を責めてばかりいるより、気が楽になるのも確かだ。

 

しかし、この「むりやりポジティブシンキング」は、自分の非を認められないという非常にめんどくさい感情から生まれているものなのである。

 

その証拠に、自分の行いとは関係のないようなこと、例えば「せっかくのお出かけなのに晴れなかった」「コンビニに目当てのおやつが見当たらなかった」というようなときには、あらら、としか思わない。

 

もちろん、写真を撮るときに「お、今日はくもってるからまぶしくなくて顔が死なないな」と思うとか、そんな感じでよい面を発見することはある。

 

でもこれは、自然に湧いて出てきたナチュラルな感想であり、最初の例のような「よくなかったことをよかったことにしちゃえ」というむりやりポジティブとは違う。

 

なんでも「よかったこと」にしてしまうのは、完璧主義の裏返しなのである。

 

わたしが人生あんまり向いてない理由を考えると、たいていが「人生完璧主義」に還元される気がする。

 

全てのテストで100点を取りたいとか、絶対に時間を守らないと嫌だとか、そういう完璧主義とは違う。

 

ちょっとでも仲がいい人は知っていると思うが、授業は聞かないし、よく遅刻もする(ごめん)。

 

でも、自分の人生が「完璧に幸せ」であってほしい、という思いが人一倍、おそらく人三十倍ぐらい強いのである。

 

だから、自分の非を認めず、なんでも「よかったこと」にしてしまうのだ。

 

わたしは、「よかった」というペンキでなんでもかんでも塗っていくことに、息苦しさを感じている。

 

いちいち、小さな誤りの「よかった」部分を探すのは、疲れる。

 

そして、「よかった」でごまかせないような、大きな失敗をおかした自分、大事なことを実現できなかった自分を、否定することにもつながってしまっていたのだ。

 

そのことに気づいたわたしは、「失敗した」とか「時間の無駄だった」とか、そういう出来事を、「人生、そんなこともあるよね」と受け入れたいと思う。

 

むりやり「よかったこと」を敷き詰めるよりも、「よかったこと」も「よくなかったこと」もあっていいと思うほうが、幸せに生きられる気がするのだ。

 

前髪、まじで短すぎるんだけど、そんなこともあるよね。