人生あんまり向いてない1
わたしには、なんでも「よかったこと」にする癖がある。
例えば、ものを無くして探したことを「部屋を整理するきっかけになった」、前髪切るの失敗してごまかすために短くしたことを「普段ならやらない髪型にする機会になった」とか。
一見、人生向いてそうに見えると思う。
よくない出来事の、よい面を見るようにすることは、ポジティブに楽しく生きるコツでもあるからだ。
確かに、そういう一面もある。
自分を責めてばかりいるより、気が楽になるのも確かだ。
しかし、この「むりやりポジティブシンキング」は、自分の非を認められないという非常にめんどくさい感情から生まれているものなのである。
その証拠に、自分の行いとは関係のないようなこと、例えば「せっかくのお出かけなのに晴れなかった」「コンビニに目当てのおやつが見当たらなかった」というようなときには、あらら、としか思わない。
もちろん、写真を撮るときに「お、今日はくもってるからまぶしくなくて顔が死なないな」と思うとか、そんな感じでよい面を発見することはある。
でもこれは、自然に湧いて出てきたナチュラルな感想であり、最初の例のような「よくなかったことをよかったことにしちゃえ」というむりやりポジティブとは違う。
なんでも「よかったこと」にしてしまうのは、完璧主義の裏返しなのである。
わたしが人生あんまり向いてない理由を考えると、たいていが「人生完璧主義」に還元される気がする。
全てのテストで100点を取りたいとか、絶対に時間を守らないと嫌だとか、そういう完璧主義とは違う。
ちょっとでも仲がいい人は知っていると思うが、授業は聞かないし、よく遅刻もする(ごめん)。
でも、自分の人生が「完璧に幸せ」であってほしい、という思いが人一倍、おそらく人三十倍ぐらい強いのである。
だから、自分の非を認めず、なんでも「よかったこと」にしてしまうのだ。
わたしは、「よかった」というペンキでなんでもかんでも塗っていくことに、息苦しさを感じている。
いちいち、小さな誤りの「よかった」部分を探すのは、疲れる。
そして、「よかった」でごまかせないような、大きな失敗をおかした自分、大事なことを実現できなかった自分を、否定することにもつながってしまっていたのだ。
そのことに気づいたわたしは、「失敗した」とか「時間の無駄だった」とか、そういう出来事を、「人生、そんなこともあるよね」と受け入れたいと思う。
むりやり「よかったこと」を敷き詰めるよりも、「よかったこと」も「よくなかったこと」もあっていいと思うほうが、幸せに生きられる気がするのだ。
前髪、まじで短すぎるんだけど、そんなこともあるよね。